現代のチャシ

旭川の川村アイヌ記念館は、アイヌ文化の最後のチャシ(砦)である。アイヌ民族の民具など展示・収蔵物の種類は約150種・300点。鉄道建設測量で活躍した二代目館長・カネトゥカアイヌの使っていた測量機具や遺品も展示している。運営は決して楽ではないが、アイヌ文化をアイヌ自らの手で残し伝えるために活動している。

創立95年の歴史

川村アイヌ記念館の歴史は古い。1916(大正5)年の創立で、95周年を迎えた。まもなく100周年も迎えようとしている。現在の三代目館長、シンリツ・エオリパックアイヌの祖父・イタキシロマが現在の地に、自分のチセ(家)とは別に記念館専用のチセを建てた。そのチセに自分の先祖や近隣の人たちが使用していたアイヌ民具を展示したのが始まりである。イタキシロマはチセで見学者たちに、それらの民具などを手にとって解説していたという。また、要望があれば農作業中の女の人たちを集めて、歌や踊りも披露した。
イタキシロマの名前は、和語訳すると「言論正しい人」。厳格な性格の人だった。故砂沢クラ(アイヌ民族文化芸の伝承者)は、イタキシロマの姪にあたる人だが、著書「ク スクップ オルシペ−私一代の話」(北海道新聞社)のなかで、その人柄を次のように描いている。
「このアザボはイタキシロマ(言葉の落ち着いた人)の名の通りに、兄弟のなかでも、一番まじめで、しっかり者でした。男兄弟三人がモノクテエカシを囲んで話をしているような時でも、だれかがつまらないバカ話を始めると、怒って『失礼する』とさっと席をたってしまうのです。」

そのイタキシロマがアイヌ記念館を始めたのには、当時のこんないきさつがあった。
1900年(明治33)、第七師団(今の陸上自衛隊第二師団)が設置されたのをきっかけに、和人が急激に増えてきた。その和人たちの多くがアイヌを珍しがって「見物」にきたのである。当時すでに旭川地方に十数カ所に散財していたコタンは解体させられ、このあたりのアイヌは近文地区の「給与予定地」に移住させられていたのである。それを「近文アイヌ部落」と俗称し、昭和40年代までは案内札まで建てられていた。当時の「見物者」は、アイヌ文化にふれて何かを学ぶのではなく、ただただ「異物」を「見物」するという見方しかしていなかった。師団の設置のほかに「旧土人学校」(1901年=明治34)が開校され(翌年までに21校)、差別と同化教育がはじまった。旭川にも「旧土人学校」が開校し、毎日のように和人や外国人の「見物者」が訪れるようになったのである。
ペニウンクル(上流の人=旭川地方の人)のなかで、当時、イタキシロマはおそらく、かつてのコタンコロクル(村おさ)のような立場にあったのだろう。イタキシロマの父、モノクテはクチンコレからペニウンクルの総コタンコロクルを明治の初めに引き継いだ人物。モノクテの七人の息子のうちで、アイヌの世界では最もコタンコロクルに相応しい男が、イタキシロマであった。すでに和人の政治によって、コタンコロクルというアイヌ文化の一利度をはぎ取られてはいたが、社会的にはその伝統が生きていた時代である。
先に引用した著書の中で、砂沢クラは1914年(大正3)のこととして、次のように記録している。
「近文駅の近くでオタフク豆を作っている農家の手伝いをしました。草取りや竹立てなどをしていると、イタキシロマアザボのところから「客がきた」と使いがきます。急いで帰って、いとこのコヨちゃん、ペランコさんと一緒に口の回りにスミを塗り、アイヌの着物を着て、写真を撮られたり、ウポポ(輪踊り)をしたりしました。コヨちゃんはイタキシロマアザボの娘で私より一つ下、ペランコさんはコソンカアイヌの娘で二つ上。私たちは年齢も近く、気が合うので、何をするにも三人一緒。」
クラフチが17、8歳のころのことである。
当時から同じ地区に川上コサアイヌもアイヌ宝物館を建てており、同じ地区で二つの記念館が競り合う時代がしばらく続いた。しかし、川上コサアイヌがはじめた宝物館は1950年代に閉鎖された。それにしても、急激に、しかも強引に和人化されていった時代のことであり、イタキシロマはどのような気概で記念館を運営していく気になったのだろうか。