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日本最古のアイヌ博物館

100年の思い

 1916年に、開設したアイヌ記念館は昨年100年目をむかえました。コタンと呼ばれたアイヌの集落は、時代を経て、都市へと激変しました。時代に翻弄されながらも、100年の永きに渡って、個人で記念館を維持いていることは奇跡に等しいことと言えます。1916年といえば、大正5年、何故そんな時代に記念館を始めたかと言えば、遡る事10余年明治の終わりに軍隊が設置されたことにより、和人が急激に増え、部落への見学者が多かったこと。時には、学校の子供たちが好奇な眼で見られることもありました。先祖伝来の暮らしを禁止され、困窮を極めたアイヌコタンの暮らしにむけられる眼差しは、時に暖かく、大半は冷ややかなものでありました。

この頃、一冊の本を残して19歳でこの世を去ったアイヌの少女知里幸恵は、旭川に暮らしていた。彼女は、著書の序文に次のように綴っている。


『アイヌ神謡集』

 その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんという幸福な人たちであったでしょう。
 冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って、天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り、夏の海には涼風泳ぐみどりの波、白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮かべてひねもす魚を漁り、花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて、永久に囀ずる小鳥と共に歌い暮らして蕗とり蓬摘み、紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて、宵まで鮭とる篝も消え、谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、円かな月に夢を結ぶ。嗚呼なんという楽しい生活でしょう。平和の境。それも今は昔、夢は破れて幾十年、この地は急速な変転をなし、山野は村に、村は町にと次第々々に開けてゆく。
 太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて、野辺に山辺に嬉々として暮らしていた多くの民の行方も亦いずこ。僅かに残る私たち同族は、進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり。しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて、不安に充ち不平に燃え、鈍りくらんで行手も見わかず、よその御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おお亡びゆくもの・・・・・それは今の私たちの名、なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう。
 その昔、幸福な私たちの先祖は、自分のこの郷土が末にこうした惨めなありあさまに変ろうなどとは、露ほども想像し得なかったのでありましょう。
 時は絶えず流れる、世は限りなく進展してゆく。激しい競争場裡に惨敗の醜をさらしている今の私たちの中からも、いつかは、二人三人でも強いものが出て来たら、進みゆく世と歩をならべる日も、やがては来ましょう。それはほんとうの私たちの切なる望み、明暮祈っている事で御座います。
 けれど・・・・・愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消失せてしますのでしょうか。おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います。
 アイヌに生まれアイヌ語の中に生いたった私は、雨の宵、雪の夜、暇ある毎に打集まって私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極く小さな話の一つ二つを拙い筆に書連ねました。
 私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事が出来ますならば、私は、私たち同族祖先と共にほんとうに無限の喜び、無上の幸福に存じます。
  大正十一年三月一日
                                 知 里 幸 惠


未来へむかって

 都市部でのアイヌ文化の維持はとりわけ難しい。人口の比率からもアイヌの存在自体が、なかなか人々の意識から遠のいてしまう。そのような中、アイヌ記念館の存在は、地元のアイヌにとって砦のような存在である。また、街が整備され、すべてが画一化されていく昨今、どこか懐かしい風景をたたえるアイヌ記念館は、貴重な空間である。また、昨今ガーデンブームで美しい庭は多数存在するが、記念館には、北海道に自生する植物が多数植えられ、小さな山の様になっている。当記念館に多くの人が集い、憩いの場になる事を願って「イテムカ」(=憩う)と名付ける。
2019年 一般社団法人川村カ子トアイヌ記念館になりました。